高崎だるまの歴史 HISTORY

そうだったんだ高崎だるま

鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。

本市では豊岡地域を中心に「高崎だるま」の伝統が受け継がれています。日本の吉祥である鶴と亀が顔に描かれていることから「縁起だるま」「福だるま」とも呼ばれている高崎だるま。

群馬県ふるさと伝統工芸品平成5年には、群馬県ふるさと伝統工芸品に指定されています。また平成18年には、特許庁が創設した地域団体商標制度で県内初となる商標登録を受けています。

高崎のだるまは、旧豊岡村が1955年に高崎市と合併するまでのおよそ140年の間、豊岡だるまと呼ばれていました。現在は「高崎だるま」として商標登録を行い、全国にその名が知られています。

高崎だるまの歴史

高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。

稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。

徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。

病気除けとしてのだるま

鮮やかな赤色が印象的な、高崎市民になじみ深いだるま。

だるまの広まりは、江戸で疱瘡(天然痘)という病気が流行したことに由来します。当時の庶民は病を恐れ、しばしば願掛けを行っていました。赤いものが邪気を払うと信じられていたため、赤く塗られただるまが疱瘡除けとして求められるようになりました。流行時には、子どもの枕元などに置かれていたと言われています。

その後、疱瘡の予防法が発見されたことで、江戸のだるまは姿を消していきました。

貴重な資料の発見


高崎談図抄


(拡大)だるまを売る様子

近年、「高崎談図抄」という文政十二(1829)年の文献に、だるまに関わる記載があることが分かりました。田町の市で、だるまを売る様子が版画と文章で残されていたのです。まちなかで、だるま市のルーツともいえる動きが始まっていたことが分かる貴重な資料です。

当時の田町では、毎月5日と10日をゴトオビと言い、月6回の市・六斎市が開かれていました。「お江戸見たけりゃ高崎田町、紺ののれんがひらひらと」と謡われたほどにぎわっていました。六斎市の中でも、正月の10日を初市と呼び、市の神様を祭り、まちを挙げて祭りに沸いたようです。

高崎談図抄には、この初市の風景が描かれ、市の神様の前にだるまを売る店が出て、人々が買い求めている様子が見て取れます。今でも続いていれば、県内で最も歴史あるだるま市になっていたのかもしれません。

木型に見る高崎だるまの変遷


初期の木型は、中央に衣線がある


明治中期以降の型は、中央の衣線がない

高崎だるまの昔ながらの制作方法は、木型に紙を重ねて貼り、乾いたら型から抜く「張り子」と呼ばれる手法です。

本市が全国でも類を見ないだるま職人の町となったのには、ある一人の型彫りの名人の存在があります。元金沢藩士の葦名鉄十郎盛幸がその人です。皆から「だるまの型彫り鉄つぁん」と呼ばれていました。
初期の頃は、顔の下の部分に棒のような衣線が彫られていました。横浜港の開港で、シルクの輸出が盛んになると、養蚕業も全国的に広がっていきます。鉄十郎は繭の形にこだわる人たちの声を参考に丸みを帯びた型を作りました。

そして、縁起の良い「福入」の文字が書けるように、衣線の間隔を少し開けました。この型が踏襲され、現在の高崎だるまに至っています。

高崎だるまの社会的変遷

1697年 [元禄10年]
東皐心越禅師を開山と仰ぎ、その弟子・天湫法礼が開創。少林山達磨精舎(達磨禅利)といわれた。
1726年 [享保11年]
水戸家から「三ツ葉葵」の紋所と「丸に水」の徴章を下賜される。
1732年 [享保17年]
10月6日、正式に寺格が昇格し、少林山鳳台院達磨寺となる。
1783年 [天明3年]
夏、浅間山の大噴火。関東一円に火山灰。
1782〜1788年 [天明2〜8年]
天明の大飢饉
1793年 [寛政5年]
山県友五郎誕生(飢饉後5年)
1789~1801年 [寛政年間]
東獄和尚が飢饉に苦しむ農民山県友五郎にだるま作りを伝授し始まる(少林山伝)
1804年 [文化1年]
9代目東獄和尚没。友五郎11歳(飢饉後16年)。
1804~1817年 [文化年間]
町人文化の全盛期。商人の台頭(絹織物着用など贅をつくす)。養蚕業が地方により盛んになる。
1829年 [文政12年]
田町のだるま販売。田町六斎市初市の版画(高崎談図抄より)
1859年 [安政6年]
横浜開港。海外へ生糸・絹織物輸出はじまる。関東をはじめ、全国に養蚕地帯が拡大し、養蚕農家が増大。高崎だるまの蚕大当たりが売れる。
1862年 [文久2年]8月9日
友五郎69歳没『戒名:是法軒招庵常成居士』常安寺:墓誌70歳。
1866年~ [明治初年]
少林山達磨寺のだるま市が本格化。
1882年 [明治15年]
高崎線開通
1884年 [明治17年]
川崎大師に初めて高崎だるまが進出。
1887年 [明治20年]
信越線(横川~軽井沢間アプト式完成により)開通
1893年 [明治26年]
だるまを売るのに「物品、小売営業」という村役場発行の鑑札が使われた。
1915年 [大正4年]
製造業者40数戸、売上額3万円に激増する。碓東達磨製造業組合を組織する。
1924年~ [大正末期、昭和初期]
リヤカー・自転車が導入され、各地の市へ行くのにリヤカーに積んだだるまをリヤカーで運ぶ。遠い市には、だるま屋が何人かで組になって、貨車(列車)に丸籠を積んで送った。
1945年~ [昭和20年代]
戦後の国税不足から、だるま製造業者にかかる税金が高く、税務署員の調査対策に役員は苦慮した。この頃、自転車にエンジンのついたトヨホーターが出まわり、リヤカーにだるまを積んで市に行くのが楽になった。
1955年~ [昭和30年代]
この頃、オート三輪車(自動三輪車)が利用されはじめ、だるま市へ行くのに楽々と運べた。
1955年4月 [昭和30年]
初めて 必勝だるま がつくられる。(選挙)
1965年~ [昭和40年代]
この頃から、自家用トラック(貨物自動車)を購入して、だるま市へだるまを運ぶようになった。
1997年 [平成9年]
開山東皐心越禅師の300年記念。達磨寺の総門建立される。
2001年 [平成13年]
群馬県達磨製造協同組合員66名。
2011年 [平成23年]
群馬県達磨製造協同組合員60名。
2017年 [平成28年]
山県友五郎没後155年を迎える。